彼女の福音
参拾弐 ― 愛を求めて ―
それは、岡崎のところに風子ちゃんと一緒に遊びに行った時の話だった。
岡崎のところにはすでに智代さんの弟である鷹文とその彼女である河南子、そして春原と杏がいた。
「そういえば芳野さん」
女性陣が食材を買いに揃って出かけている時に、春原が手を挙げて俺に聞いた。
「芳野さんは萌えについてどう思ってるんですか」
「萌え、だと?」
思わず聞き返してしまった。
「いや、ほら愛とかってやっぱ萌えと密接な関係があるって思うんだけどね。そこんとこ愛の伝道師、芳野さんはどう思っているのかなぁって」
「勝手に変なあだ名をつけるな」
岡崎と鷹文が、ジト目で春原を見ていた。
「春原、それぐらいに……」
「そもそも、外見や言動だけで愛の程度が左右されるという考え自体が冒涜だ。愛とは心の底から湧きあがる、涸れることのない泉であり、燃え尽きることのない永久の炎であり、陰ることのない久遠の光だ。愛は物理的な限界を凌駕する。すなわち、いかなる山頂よりも高く、如何なる海溝よりも深い。酸素や太陽のごとく、人は愛なしでは生きていけない。いや、むしろ愛のみで生きていけるのだ」
気がつけば立ち上がって拳を蛍光灯にかざしていた。周りを見回すと、岡崎も鷹文も春原も俺から一歩ほど下がって苦笑いを浮かべていた。
「春原……」
「悪い、岡崎。間違ってスイッチ押しちゃった」
「さすがにぃちゃんの元先輩、愛についてこんなに熱く語る人ってあまりいないね」
よくわからないが、少し引いているようだった。どうも俺は言葉が足りなくていけない。わだかまりを残さないよう、ここは一つ、細部に至るまで愛というものを語るとしよう。
「いやいや、もうお腹一杯です」
「だ、大体萌えなんて愛に関係ないだろ」
岡崎が話題をそらすかのように言うと、鷹文と春原が岡崎を見てため息をついた。
「な、何だよ」
「岡崎、お前さ、こないだ飲みに行った時、智代ちゃんに猫耳は最強だって言ってたよね」
「ねぇちゃんに昔『お兄ちゃん』とか呼ばせてた記憶がおぼろげにするんだけど」
「う……ぐ」
滝のような汗を流す岡崎。しかし、鷹文の得意げな顔も、そうは続かなかった。
「そ、そういうお前はどうなんだよ?」
「え?僕?あはははは、何言ってんのにぃちゃん。河南子を見れば僕の世界が萌えとは程遠いってわかるでしょ」
「河南子だけを見ればな。だが、そこに智代が混じると話は別だ」
「へ?」
春原が素っ頓狂な声を出した。
「にぃちゃん、ちょっと……」
「鷹文君は姉と俺とのらぶらぶライフがとっても気になるわけです。何故かって言うとぉ、実は鷹文君ったら、とんだ姉萌えさんだったからですぅ」
「ふ、ふん。いくらにぃちゃんがそんなこと言っても、騙される奴なんて……」
「うおおおおおおおおっ?!鷹文と智代ちゃんの禁断の姉弟愛っ!うは、みwwwなwwwwぎwwwっwwwwてwwwwきたwwwww」
「騙されてるっ?!」
どうやら鷹文は春原の馬鹿さ加減を大きく過小評価していたようだった。
「春原にしてみれば……まぁエロ馬鹿だし」
「ああ、そうだな……愛を語っても理解できないだろう」
「何そこでさりげなくひどいこと言ってるんすかっ!!」
「だって、お前が何萌えかって考え出すと、きりがないだろ」
「春原さんなら、結構マニアックなシチュも好きそうだしね」
「し、失礼だな。僕はね、無節操じゃなくてね、萌えに周期ってのがあるんだよ」
鼻の下をこすりながら、春原は恐ろしくしょうもないことを胸を張って語り始めた。
「周期ねぇ……じゃあ今は何萌えなんだ?」
ほとほと呆れ果てた、と言いたげな顔で岡崎は春原に聞いた。すると春原はよくぞ聞いてくれたといわんばかりの笑顔でサブアップをした。
「今はね……人妻だねっ!」
なん……だと?
「最高だよね、人妻。何つーの、旦那さんがいるのに魅惑ありまくりって、どんだけ哀れな子羊を惑わせなきゃいけないんだよっ!!って感じでさ」
「ふ、ふーん」
「だいたいさ、(21)もいいしひんぬーも歓迎だけどさ、そういうのよりも大人の時間ってのも大切だと思うわけ。わかる、鷹文クン?」
「え、えーと、できればわかりたくない、かな?」
「ここらへんでの人妻って言ったら、やっぱ早苗さんだよねぇっ!もう早苗さんだけでご飯三杯はいけそうかな。パン屋なのに」
「誰がうまいことを言えと。でさ、春原さん、やっぱりそれって拡張するつもりなの?」
「は?拡張?」
「だからさ、今は早苗さんにロックオンしてるけどさ、他の奥様方にも興味あるのかなぁって」
「そりゃあもちろんさ。早苗さんだって、いつも僕の相手できるわけじゃないし、大人の世界ってやっぱ奥が深いからねぇ。いろんな有閑マダムにチャレンジしないと」
「その言葉が聞きたかったよ。んじゃ、妻帯者のみなさん、判決をどーぞ」
「ほえ?」
鷹文が俺と岡崎にジェスチャーする。寸分違わぬシンクロで、俺達は腕組みを解き、右腕を突き出して親指を床に向けた。
『ギルティ』
先攻、俺。
「有閑マダムとは……公子のことか……公子のことかパアンチ!!」
「ぶごふぇっ!」
後攻、岡崎。
「てめえ、人の妻を何だと思ってやがるキイック!!」
「ずばふぅっ!!」
フィニッシュ。
「ギガ・ラブウォリアーズ・ブレイクッ!!」
「ぬっぴょおおおおおおおおおおっ!!」
全国の妻を思う夫の諸君、我らが敵は滅んだ。安心して愛する人を愛でてくれ。
「だいたい、そんなことしてるよりもさっさとやることが俺たちにはあるだろ」
岡崎がモザイク処理をされたそれに話しかけた。
「えっと……何だっけ」
「ゲームか何かを考えるって話。つーかお前、それ忘れてたら後で杏に殺されるぞ」
「つーかマジで死にそうなんですけどね……」
『あァ?』
「ひぃいいっ!芳岡コンビも息ぴったりっすねっ!!」
いつまで続くんだこのコントは、と言いたげなため息をついて、鷹文が岡崎の押し入れから小さな箱を出した。
「んじゃ、無難なところでトランプ。ババ抜きとか」
「無難にもほどがある。そんなんじゃお前、河南子に『これから語尾に僕は馬鹿ですけどねってつけろ』って命令されそうだな」
「……なかなかにあり得そうで嫌だね、それ」
苦笑いをする鷹文。
「でもいいでしょトランプで。もうめんどいし」
春原が放り出すように足を延ばしてブラブラさせた。子供か、こいつは。
「でさ、さっきの話に戻るけどさ」
「戻るな」
「いいから。好みのタイプとかの話ししよーぜ」
急に元気になる。こいつは何だ、愛を冒涜しているのか。
「芳野さんの理想の女性って、どんな人っすか?」
「公子のように慈愛あふれる、俺に安らぎをくれる女性だ。それについては、公子の右に出る者はいないだろう」
当然だ、と言わんばかりに答えてやる。
「そういや公子さんって、野球の時会ったか……学校の先生だったんだっけ」
「ああ、俺達のな」
「先生が慈愛ねぇ……」
春原が首を捻る。
「教師を一括りにするのはよくない。厳しさを持って愛とする者もいれば、優しく愛で導いてくれる太陽の如き者もいる。俺も教師にはよく追い回されたが、公子はずっと笑っていてくれた。そういうことだ」
そう、だから俺はあの人を愛した。だからあの人の傍にいたいと思った。どんな時でも、あの人の笑顔が見たかったから、俺はがむしゃらに頑張った。あの人が支えてくれたから、俺はまた立ち上がれた。その名を呼ぶだけで心が安らぎ、その顔を見るだけで胸が躍り、その声を聞くだけで光がさした。愛とはそういうものだ。そもそも愛とは
「で、岡崎のタイプってどうなわけ?」
……スルーされていた。
「俺の好み?そりゃ、すげえうるさいぞ?」
「うるさいんだ?」
意外そうに岡崎を見る春原。
「ああ。まず普段は気丈でまめで凛々しい、という感じなのに、ふとしたことで甘えたりするやつ。こういうギャップがないとぐっとこないんだな、ずっと媚びられてるようで。俺を導いてくれるようなところにも結構魅かれるな。無論優しいところもほしいし、純粋で、少し天然ってな具合の、何つうか心の清潔なところは重要な。あと、最近よく聞く貧乳だの何だのは却下。ないもんには萌えられない。出てるところは出ていて、引っこんでるところは引っこんでる。ここは大事だ。髪は長い方がいいよな。色はケバイわけじゃないんだったら薄めの方が好きだ。チャラチャラしたものはあんまり好きじゃないけど、シンプルなアクセサリーはちょっとしたアクセントが付いていい。そうだな、ヘアバンドやカチューシャとかな。そうだ、飯マズはちょっと勘弁。仕事から帰って更に試練があるのはきついわな。料理がうまいと……」
「にぃちゃん、それってさ……」
呆れてものも言えない俺達の代表として、鷹文が手を挙げた。
「もろにねぇちゃんだよね」
「……」
首をかしげる岡崎。天井を見上げる。腕組みをする。頭をポリポリと掻く。そして徐にポン、と手を叩いた。
「何てこったっ!!智代だっ!!」
『き、気付いてなかった?!』
「俺の最高の女は智代だったんだっ!!」
「い、いや、にぃちゃんいつもそう言ってるでしょ……」
「これはいかなる奇跡か!!俺は今、猛烈に感動しているっ!!」
「むしろ刷り込みって感じだよね、これ。または究極の馴れ馴染みというか」
「ふっ、これも愛のなせる技だ」
「芳野さん、そんな簡単にまとめるの……」
春原と鷹文が一斉にため息をついた。
「そうだっ!」
不意に春原が飛び上がった。
「何だよ、馬鹿は静かにしてろよ。こっちはゲームの内容を考えてるんだから」
「だから、そのゲームだよ……って、ひどいっすねっ!!」
はいはい、と岡崎が春原に向き直った。
「で、お前のゲームって何なわけ?」
「逆ババ抜きっ!!」
沈黙。
「人生ゲームは駒とか用意しなきゃいけないよね。今から行って、開いてるところあるかな」
「ここ狭いしな、あんまり大がかりなものはできないし」
「音楽系も止めておいた方がいいだろう。近所に迷惑をかけてはいけない」
「って、マジメな話だよっ!!」
三人で春原をジト目で見た。
「逆ババのどこがマジメなアイディアなんだよ」
「ちっちっち。普通の逆ババじゃないね。負けた奴から先に罰ゲームが来るんだよ」
「……ほう?」
罰ゲーム、と聞いて岡崎が反応する。
「どんな罰ゲームだよ」
「ねぇ岡崎、岡崎が智代ちゃんにぞっこん、てのはよくわかったけどさ、猫耳とかそういうのにも興味があるんだよね」
「……で?」
「だからさ、そういうのを付けさせたりするってのは、これは罰ゲームにならない?」
「……!!」
「……話を聞こうか」
へへん、と得意げに笑う春原。
「まず、全員の数よりも一つ少ない箱を用意する。段ボールの箱ね。で、そこに衣装なり何なりを入れて、紙にどうするのかって書いてそれを箱に入れ、ふたを閉める。箱に番号振って、逆ババをはじめる。何番目かに負けたら、その番号の振られた箱を開け、中に書いてあることをやる。ってな具合でどう?」
「……」
「……」
「……その衣装とかはどうするの?」
「渚ちゃんちにいっぱいあるじゃん。今から借りてくればいいよ」
……
…………
………………
「やるか」
岡崎が立ち上がった。俺もそれに倣う。
「面白そうだ。やろう」
「罰ゲームってのは盛り上がるよね」
「僕、古河パンにちょっくら行ってくるよっ!!」
こうして、愛に駆られた漢達の熱い行動が始まった。